2004年9月の怒り








九州大会覚書

 ちゃんと長いのを書いた。が、そのファイルがどこにあるのか解らなくなった。
 出てくるまで借りに書いておく。


 弱くて負けるのは仕方がない。相手が強くて負けるのも納得できる。
 実力が競ってるときに負けるのが一番悔しい。


 だからこの数年で一番悔しい負けは今年の県大会団体決勝で、次に悔しいのがダブルスの決勝で、次に悔しいのがダブルスのベスト4決めだった。
 シングルスは本人達が絞り尽くされててまあ納得がいった。


 悔しさをバネにするには対戦表が悪すぎた。
 決勝に行った相手に当たるまでは負けなかったんだから、まあいいかと思っている。
 大きな試合では完全に崩れて行く沖縄勢を沢山見た。
 何でこの子がこんな試合してるわけ?というのも沢山見た。ウチだけじゃなくて、他所のチームのものも。


 でも今年はそういうのが無かった。
 実力で負けるなら仕方ない。
 試合が足りなかったと思う。


 他にも色々足りなかったと思うが。


 どーしても話が負け試合なんで色々悲壮になるんだけど、遠征全体としてはとってもとっても楽しかった。ホントです。
 遠征は頑張った御褒美みたいな部分が沢山あるから。


 顧問としての反省をするならば。10人全員が大事で、最後まで可能性を残したかったから最強オーダーを作らなかった。だから直前まで引っ張ってしまった。早めに5人に絞って(もしくはオーダーを二種類に決めて)どっちかってなってたらもうちょっと腹括れたかなあ。でもこのメンバーでどうやって?普通通り過ぎたらベストが見えるんだけど、今回はどの選択もベストだったと思うんだ。それでも負けたんだしなあ。相手が強かったかな。特にメンタル。


 うん、でも、楽しかった。上を目指せる楽しさを随分長く味わって、結果が出りゃそりゃもっと良かったんだけどでも県2位だからまあいいよね?
 あ、やっぱ悔しい。悔しいのは、実力あったからだよなあ。去年はこんなに悔しくなかったもん。


 覚書の割に長くなったので真ん中8割削ってみた。「実録・こうしてオーダーは組まれた!」の部分。お読みになりたい方がいればアップしますがそうでなければこのままお蔵入りに。
2004年8月



見舞いなんか本当は嫌いだ

 私は病院が嫌いだ。
 大抵調子悪いときにしか行かないし、待たされるし、自分が客体になるのも嫌いだ。


 見舞いもあまり好きじゃない。


 弱ってるところを見られるのも嫌だったし、見るのも嫌だった。
 好きなように風呂に入れるわけじゃないし、こっちが会いたいときに会えるって訳でもないし。自分が患者でも相手が患者でもそれは同じ。


 まあそういう無茶な傾向を変えたのが3年前の入院だった。


 入院したてからしばらくはやっぱり管もついてるし調子も悪いし風呂に入れないし御見舞いありがたいんだけどなんか居心地悪いっていうか。いや嬉しかったです、その節はありがとうございます。
 でも見舞いが好きか嫌いかと言ったら、あんまり得意じゃないなってところだろうか。入院したことがある人はわかると思うんだが。


 今はそうじゃない。


 見舞いは大抵一回だが、その頃の男子バド部3年生の何人かが毎週+α来てくれた。もう引退してたし、学年も見てなかったし、バド部としてもこの子達はその春からしか見てないんだが、何かよく来てくれてた。こんな感じで。<リンクになってます。「見舞い」とか「萌え」の辺りですね


 ある程度元気になってきて、でも退院できるほどじゃなくて、もう暇で暇で暇で暇で気が狂いそうだったあの時期。
 暇つぶしグッズで遊ぶほど体力もない。
 そういう時ある程度定期的に来てくれた彼等が本当にありがたかった。
 あんまり病人扱いしないで好き放題してたのも楽だった。
 病室で待ち合わせして出かけるってのはちょっとやり過ぎだとあの時は思ったが。
 こんなこと書くともし読んでたら図に乗るから今まで書かなかったけど、本当に感謝している。


 病識もあって割と人気のある患者で(死にそうもない、よく喋る。中学生持ってる看護士さん相手に空いた時間に教育相談、今にして思えば何やってんだか)付添も毎日来てくれていた大人の私にですら、世間との距離感や深い孤独があった。
 入院するくらいの状態なんだから、それは当然なんだが。


 それをとても軽減してくれたのが、他人で大してちゃんとした繋がりがあるわけでもない彼等だった。


 だから私は、彼が来てくれたペースで、見舞いに行く。行きまくる。
 これは同情ではなく、愛でもなく、主義だなとちょっと思いながら。
 もともと見舞い嫌いだから、結構大変。同情とか愛とかじゃ続けられない。
 長居は出来ない、まだ奴の調子も良くないし。
 でもちょっと慣れてきた。


 まだ高校生で、この病気で死ぬことはないだろうけれどこの後ずっと後遺症と闘いながらリハビリをしないといけない、そういう病識も多分まだ無い。要望をきちんと伝えることも出来ない。将来への不安やもっと身近なことへの不安をどれだけ本人が抱えているか、そんなことを他人の私が斟酌することは出来ない。


 だからとにかく見舞いにはがんがん行くのだ。顔見て喋ってるだけだけど。
 小さく望むなら、もう一度彼の試合を見たい。


 というわけで、私の知り合いの皆さん、入院するなら近所にして下さい。大変です。マジで。
2004年8月29日



固まるな

 前回見舞いに高校生二人と行ったら、こいつら二人とも固まった。
 一言も喋らず、少しずつ後ざすり。
 気持ちはわかるよ、でもそれって病人に失礼じゃん。


 とゆーわけで、今回は中3の時の担任Y先生と別口で何回か行ってる高校生3人と行ってみた。


 また固まるし!<高校生


 自分達では少し喋っていたのでいくらか前回よりマシだったが、話しかけるのが出来ないのね。


 今回はYesとNoが理解できたのでちょっと楽だった。


 あと、やっぱり大人のY先生が心の支えだった。
 さすがに答えを返さない相手に延々と喋るってとこまではしないんだけど(私はしている、なんかピン芸人みたいだよ)返さないMの代わりに返事してくれるのでありがたい。


 私は割と色んなものが平気だけれど、それでも病室に入るときに勇気はいるんだよ。大事にしていた分だけ。


 本人は、少し荒んでいた。
 前回はまだ訳がわからん、という感じが強かったんだけれど、うーん。
 とりあえず差し入れは握力用の筋トレの、あれなんていうの?あれにする。
2004年8月24日



文字化けじゃない

Olowe mi tink bout hem, mi tink bout hem nomoa.
Sapos mi stay weitem hem, mi no wonde enything.


Bakete, mi know mi tink evey moment sapos doim somefara something weitem olketa, stap weitem somefara, hem i no moa.


Mi karange.


Mi no save stap weitem hem, mi baraba baraba save.
So mi marit weitem. Kanse nao.
No, hem i choise blong mi. Hem i OK nomoa ya.


But mi no save katem heart blong mi.


 たまにはいいかと。
 まだ頭の中では2割ぐらいはこんな感じなんですけどね、そうやって喋っても誰にも伝わらないから。


 伝わらない言葉の意味の無さが嫌いだけれど、伝わらないほうがいいことも沢山ある。
 日本語ではfitしない感情もある。私が言葉を知らないだけかもしれないけれど。


 たまにはいいかな、こんなのも。
 さっぱり九州大会ネタが終わりませんが。長いのを消してはまた書いて、胃に悪いっつーの。
2004年8月23日



脳とか心臓とかが専門なんだけど

 見舞いに行って、まわりの人とも本人とも話はできなかったけれど、大まかに本人の状況がわかったのでやっと本気で調べてみた。


 何を、ってもちろん左脳の脳梗塞。


 なるほど、とああ思ったより重いんだ、というのがすごく雑な感想。


 あと、あの子が左利きだったんじゃないかと。確か。バドは右でやってたけど、ご飯食べるときは左じゃなかっただろうか。その方が軽くすむようなのだ。


 取りあえず非モジュール理論を信じながら行くたびに平仮名の練習させるさ。
 とにかく人の言ってることは判るみたいだから。


 まどろっこしいだろうなあ、わかってても喋れない、読めても書けない。


 私は神経とか心筋とかが専門で(もうちょっとしっかり言うと神経原性心筋が専門)結構脳とかの勉強もしたんだけど、結構忘れてるもんだ。
2004年8月19日



要は己より大事なものは持たないことにしているということなんだが、そういう大事なもんがどうしてもできてしまうというのは私の業なのであろうか

 愛するものを持ちたくない。
 失うことに耐えられないほど弱いからだ。


 それでも愛することを止めることはない。
 それはできないこと。


 ただ、心を一つのところに置きすぎないように心がけてはいる。


 失うことが判っているものに心を預けるような真似を今でもする、でもそれをせめて表には出さないように心がけている。


 人より物が大事だなんて、とか今遊びたいのにどうして駄目なのとか、なんで今テトリスしてるのとか責められる。
 そんなの全部距離を取る口実に決まってる。そうやって心をそらしているのだ。
 気持ちが向きすぎるのは避けたい。もちろんやるべきことはした上でそっぽを向く。
 それは意識しているというより、単なるバランス感覚で。


 過ごした時間の分その人を、その場所を、私は大事に思う。
 老若男女関係ないし、人ですらないことも多い。
 でも相手がそう思うとは限らない。
 だから、意識してクールダウンする。
 それ以上気持ちを向けないように気をつける。


 何も私のものではない。
 何もかもが誰かのもので、私のものではない。


 誰も私に所属しない。
 みんな誰かのもので、私のものではない。


 それが理想。だから野垂れ死ぬ。




 まあそういうことなんだけど。




 表現はしないけれど(いや、してるのかな?)同じ時間を過ごした分私は大事に思う。
 友人でも、家族でも、生徒でも、それは同じだ。
 入れ込みすぎないように、でも腹の中ではそりゃあ大切に思っている。


 それでも別れはいつも来た。


 開発途上国にも友人が多い私は、別れも言えない別れを何度も体験した。
 二度度会えないならそれは死に別れと同じだと言われたこともあるが、違う。
 生きていればまた会える、本当に会いたければ。日本に住んでてある程度稼いでるから言える科白だというのも自覚している。
 でもいきなりの訃報に金で何ができるというのだ。


 年をとった友人と会ったときは、少しだけ覚悟する。
 次に会えるのか。これが別れではないのか。
 そうなるときもあるから。


 でも国内の年下や年の近い人は違う。
 日本ではそんなに簡単に人は死なないもの。


 彼等の未来、希望、そういうものを覚えていて、でももうそれは無いもので。
 そういう思いをすることが殆ど無いのが日本で生きる一番良いことだと思ってきた。
 なんだかんだ言っても医療の充実したこの国を住み処に選んだのはその所為だ。


 私に連絡が入ったのは16日部活後。
 彼が倒れたのは9日夜。
 思わず切れた。
「連絡遅いし!」
「だって先生達九州行ったでしょう、だから」
 帰ってきて三日も経ってんだよこのやろー。
 てな話ができるのもここが日本だからだと思う。そう思えるところまで何とか来た。


 失いかけたときにそれがどんなに大切であるか判る、そんなふうに生きたくはない。
 でも、バランスを取っていてですらやはり私がどれだけ大事に思ってしまっているかということを思い知らされた。
 そういうことなんだと思う。前半に書いてる努力は何なんだ、というオチである。


 私の大切な人たち、健康には気をつけて下さいね。そして私より長生きして下さい。
2004年8月17日



モチベーションの維持
 ここをやっていて一番よかったと思うのが、自分の思考のバイヤスがわかったことだ。


 毎年、大事に面倒を見てきた代が引退に近づくとやる気が無くなる。
 あと、卒業の時期に鬱になる。


 今年も例年と同じ状態で、どうも悲しい。
 練習も夏休みでコートも人手も割とあるのでぬるい。


 私にとってやる気は生徒に貰うもの。
 今の3年部長が、上の代が引退する直前に言っていた。


 レベルの高い先輩達が練習にいなくなるのは不安だと。


 そういう状態なのかなあと少し思う。
 毎年のことなんだから慣れてもいいのにとも思うんだが。


 8割は3年見てて、2割2年見てて、1年は休憩時間に見てる、そういう配分でいつもやってきた。
「1年の時から結構見てもらってたような気がするけど」
 それは私の技術ということで。


 どんなに勝ってもこの子達が夏休みで居なくなる。毎年のことだけど、やっぱりとても悲しい。
 例えば今日来た高1のように、例えばこの夏休みにずっと来てる高校生のように、確かにこれでこの代との関わりが終わるというわけではない。それはわかってる。
 でも多分今年で移動だから、高校生になったこの子達がこの体育館で後輩を指導する姿を見ることは無いだろう。
 寂しさがつのる。


 って、九州大会もまだだって言うのに、何凹んでるんだかね私は。
 モチベーション下がってるぞ私。
2004年8月7日




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